
拘束時間は午前十時から午後五時。通勤時間は原付自動二輪で約四十分、あるいは五十分で、交通費支給はなし。社会保険加入。昼食は自費、現地調達。月給は歩合制で、先月の俺の給料は約八万円弱だった。こうした条件の仕事が実際にある。俺の就業形態は色々と複雑な事情が絡み合っており、あまり公共の場で言いたくはないかたちをしているのだが、とりあえず、俺はこの新しいパートタイムを八月初頭から続けてここまで我慢した、だが、もう限界だ。社会人としての責任も求められているし、引き継ぎが見付かるまでは続ける義務があるとはいえ、二〇代の貴重な時間を費やした見返りが余りにも貧弱ではなかろうか。という訳で上司に直談判し、この仕事からは正式に降ろさせて貰った。
……辞めた後も皆は「心配しなくていい」と言ってくれるが、途中で仕事を投げ出した事には変わりがない。こうした自分のあまりの要領の悪さには、涙が出るほど厭になった。
去年の三月頃までウチの会社は、とある某T建設の下請けとして、つくばTXみどりの駅近郊の宅地造成工事に参加していた。T建設のとある方がウチの社長と面識があり、かなり以前から仕事を回して貰っている。……俺が最初にT建設と関わった記憶は、鹿嶋市にあるS金属製鉄所構内の火力発電所増設工事において、測量補助員として参加したことだ。もう何年前になるのか正確な覚えはないが、そこのT建設社員さんと大学進路についてあれこれ話をした記憶が朧に残っているので、高校生の頃のバイト時代だったのではないかと思う。
鹿嶋の現場での施工管理技術者であるT建設社員さんは、現場事務所長を除いて、全員がほんの20代後半の柔和な顔をした若い社員ばかりだったのだが、彼らは完全なるエリート揃いだった。あれだけの規模と複雑さを持つ設計図を正確に理解し、人員と機材を配置し、スケジュールを組んでいたのだからまったく舌を巻く。
鹿嶋の現場はその後、事務所の人員配置や立地などが変化しながらも、海に面した火力発電所施設を守るための防波堤建設工事にそのままスライドしたり(台風によって一回現場事務所が流されたりしたもんだ)、また同じ製鉄所でありながら別の敷地での工場ライン増設工事に参加したりと、かなり長い期間に亘って活動したことをよく覚えている。
当時からドバイプロジェクトの話を耳にしていた俺は、彼らと一緒に仕事をできる事を誇りに思っていたものだった。俺の認識が大きな変化を余儀なくされるのは、それから若干の時が経った後の宅地造成工事の現場である。
我々の測量会社は工事のかなり早い時期から参入していたのだが、何ヶ月か活動を続けるにつれて、どうもこの現場は様子がおかしい事に気付いた。まず違和感を露わにしたのは、各下請け会社の職長さん達である。配置や作業の手際がどうもぎこちない、工事の進捗が遅いのではないか、といった具合に、口々に眉に皺を寄せて語るのだった。
それもその筈、この現場は38ヘクタールもの面積があり、現場事務所に配置された人員だって四人もいるくせに、実際に現場を視察して忙しなく活動しているT建設の施工管理者はたったの一人か二人。そして表だって動いているのは、当時恐らく25歳ほどの若い社員Eさん一人であり、彼の経験や現場の広さ、管理しなければならない要素の膨大さ等の諸要素から鑑みて、明らかにキャパシティオーバーをしているのは明らかだった。立ち会い検査で質問を受けた時、しどろもどろになりながら必死で設計書のページを捲るEさんを見て、後に慰めの声を掛けた上司(納期の遅れが酷くなるにつれ、工事の終盤、応援に駆け付けた人員が何人も居る。)と同じく、俺も同情の気持ちを禁じ得なかった。今でも俺は、Eさんには一つも責任はないと思っている。
実名を挙げるのは避けるが、40歳程度の施工管理員の一人は、結局工事が始まって三年近く、一度も現場を視察することが無かったのである。後の人員コスト削減でEさんは奥多摩へ転勤となり、そのベテランさんは残ったのだが、まるで当然の事ながら、実際の現場の事情は何一つ分からない様子なのだった。しかもこの人、挨拶をしても返事をしないのであるし、朝礼で明らかに思い付きで言っているような責任転嫁を平気でのたまった事もある。不審どころか軽蔑すら漂う空気を、彼はどう感じていたのか今でも不思議に思う。
あくまで俺の会社の内部での噂話なのだが、T建設というのは、あちらの業界では非常に評判が悪いようだ。今ではそれはもうまったく納得できる。K建設やT’建設など、他の信頼されているゼネコンのどこよりも安い金額を提示して入札したはいいが、予算があまりにも無さ過ぎるので下請けに回せる金が無く、したがって薄給で扱き使うので優秀な下請けはまず集まらない、というか途中で遁走することすらある。当然出来上がった代物も非常に品質の悪い粗悪な代物が多く、発注者の要求するクオリティはまず見込めない事が多いのだ。これは俺がつくば市の現場でのみ痛感した事柄だが、もしかするとT建設の他の現場でも当て嵌まるのではないか。ただ、やはりバブル時代や90年代には猛威を奮った大企業ゼネコンと言えども、その内部の人間はやはりピンキリなのだろう。
夜から暇をこいていたので、弟と二人で行方市の公共温泉施設、白帆の湯に行って来た。

券売機で切符を買い、奥の100円ロッカーに靴を預け、その鍵と切符をフロントに渡すと、三階にある脱衣室のロッカーの鍵と交換してくれる。フロントの姉ちゃんがピースしてんなぁ……ノリのいいお嬢さんだ。

こうしたデカい風呂に入ると相変わらず足元や周囲がおぼつかなく、随分と不安になる。足元を滑らせて頭打って半身不随とかいう状況を想像し、寒々しい胸中になるのが毎度の事だった。ハーブの葉が詰まった布袋の浮く薬湯と、ベランダに施設された露天風呂にばかり入っていた。普段から熱い湯の好きな俺は、露天風呂の熱さがなかなか合っている。

帰りがけに二階の軽食堂で細やかな物を食ってゆく。こうした、だらーんと弛緩したまどろみの空気は、いつになっても好きで仕方がない。