2011年05月11日

20110511(2) 思い出ばなし #3

すみません、とても読み辛いと思います。

Vistigsmall.jpg

高校に入ってすぐは、とても順調な滑り出しだった覚えがある。
高校一年の一番最初、俺の近場の席となった女子生徒に、S井さんという方がいた。S井さんは分け隔てのない、朗らかで明るい人で、席のすぐ隣だった俺には積極的に話しかけてくれて、じき仲良くなったのだった。成績も優秀だったし、スポーツも得意で、所属は確か吹奏楽部か、そういった音楽系の部活だった覚えがある。生活も品行方正で、驚くほど隙がない。席替えで離れてしまって早々、定期試験の現代文で一位を取った俺だが、廊下に張り出された紙を眺めて、S井さんも数学で一位を取っていたのを目にして、とても嬉しくなったのを覚えている。その後、S井さんと教室でばったり出会うと、「一位おめでとう!」と笑顔で言ってくれて、驚きと同時に感動した俺はろくに二の句も告げず、「ありがとう、あなたも。」と絞り出すのが精一杯だった。まだ親しい友人も校内に居なかった俺にとって、その出来事がどれだけ救いになったか。

高校一年次の、三学期か、それくらいの時期だったと思う。
最初に奇妙な違和感を覚え始めたのは、まず自分の身体だった。

手がやけに引き攣るような感覚がして、力の加減ができなくなった。
シャーペンを握ろうとすると強く握り過ぎてしまい、五分も書き物をしているとそれだけで疲れてしまう。逆にそっと握ろうとしたら、今度は力が軽過ぎてペンの胴を保持することさえできない。
この不可解な身体の違和感は、じきに脚にも伝播し始めた。
まともなフォームで歩くことができない。まるで脚が歩き方を忘れてしまったように、強張った歩みしかできなくなってしまった。
歩こうとすると、外見からはあまりにも異常な歩き方で歩いてしまうので、仕方なく「普通の歩き方」を強く意識して、他人の動きを真似て歩くしかない。
これもまた凄まじく疲れる日常だったが、自分もこうした異常が理解できず、相談は誰にも、どこにも出来なかった。
担任の先生は良い方だった。明らかに異常な不調を示し始めた俺に目敏く気付いて、何度も心配の声を掛けてくれたし、特別に家庭訪問もしてくれた。だが、当時の俺は自分がどうなっているのかまるで分からなかったし、まともな対応もできないまま、彼の厚意から逃げているばかりだった覚えがある。恩人である彼が、いまどこで何をなさっているのか、まるで把握できていない。去年に年賀状を送っても、住所不明で帰って来てしまった。高校時代に友人など一人もできなかった俺は、そのまま誰に消息を聞くこともなく過ごしている。

次に起こり始めた症状は、夜の不眠と、昼間の凄まじい眠気だった。
俺はもともと、小さい頃から寝付きの悪い人間で、布団に入るのが例え十時ほどでも、夜の一時まで寝付けないくらいが普通のことだったのだけれど、
高校に入ってからの寝付けなさは、これはもうはっきり不眠症と言ってもいい程だ。
一時どころか明け方の五時近くまで眠れないのは日常茶飯事で、酷くなると通学のための起床時刻まで、一切まったく眠ることができない、徹夜の状態だった。
夜に眠れないことによる疲労と負荷は昼間に押し寄せて来て、有り得ない事になんと授業中に眠ってしまう事態が頻発。
最初の一回こそ、先生は笑って許してくれたが、二回三回と続くと激怒し、しかしそれが更に続くようになると、「一体どうしたんだ?」と教職員室で心配してくれる程になった。
しかし、自分でも何が原因なのか分からない。いや、原因は分かっているのだが、それが何故起きてしまっているのかは全く見当もつかない。
結局、か細い声で、「すみません。」と言う他なかった。

二年次に進級すると、異常な身体の強張りは、更に悪化の一途を辿った。
筋肉が勝手に緊張してしまい、椅子に座っている姿勢を保っているだけで、身体をガチガチに、意識的に抑えつけなければならない。舌や顎が引き攣るというのは、更に凄まじい苦痛だった。
家で休んでいるときでさえ、一瞬でも気を抜けば、そのままその場でのたうち回りそうなほど、全身が強張っていて少しも休むことができない。
当然の事ながら、まるで授業に集中することができず、成績は明らかに急降下していった。
とにかく真面目で従順だった俺の、異常な成績の低下具合に気付いたのは、まず誰よりも教職員である先生方で、みな誰も彼もが俺を心配してくれたのだが、俺にも原因は分からないのだから「わかりません」と返すか、あるいは明らかにその場凌ぎの嘘でやり過ごすしかなかった。
両親の狼狽はもっと酷く、ほとんど半狂乱で何かを言って来たが、俺には何の反論もできない。
級友たちも、それはそれは敏感に、異常な挙動を示すようになった俺に気付いたようで、明らかに遠巻きにするようになった。その頃はもう身嗜みに気を付ける事すらできず、散髪さえ疎かにしがちで、寝癖だらけのぼさぼさの髪を晒して行くものだから、皆うんざりしていたことだろう。青白いを通り越して土気色になった不健康な肌に、生気の無い目をしていたし、肌荒れも酷くて、こんな人間はさぞ目障りだった事だろう。

親に自分の体調不良を相談できて、やっと病気だということを打ち明けることができたのは、夏休みも終わってしばらくのことだった。
最初はどこの病院に掛かればいいのかも分からず、何軒かの内科をたらい回しに点々としていたが、ある時に、一軒の心療内科医を紹介された。
そこはキリスト系の医院で、斜視の医師だった。
彼は俺の病名を『自律神経失調症』と言ったが、その時のその言葉は、実は方便だった事が後で分かっている。
血液検査の結果で、「甲状腺ホルモンが異常な高い値を示している。」と言われたが、当時の自分には何の事だかも理解できなかった。
けれども、彼に処方された薬は驚くほどの効き目があったし、またとても穏やかで、物静かな人物で、自分はすぐにそこの診療所が気に入ってしまった。
ただ、問題はその薬が、あまりにも効き過ぎることだった。
睡眠導入剤(つまりは睡眠薬だ)として渡された薬を飲むと、学校の日の朝には全く起きられない。辛うじて起きられたとしても、通学の間はほとんど眠っているのと同じ状態で、学校の授業中に起きている事さえ極めて困難だった。これは薬を弱めても状況は改善しなかった。
同じように、身体の痙攣を抑える薬を飲んでも、副作用である異常なほどの眠気に悩まされた。本来から「ちょっと眠くなり易い薬だから」と言われて処方されても、既定の分を飲んでしまえば、もう翌日の授業は絶望的だった。
結局この睡眠導入剤と、治療のための薬は、どちらも数か月もしないまま、自分で飲むのを止めてしまった。
医師からは「飲まなきゃ良くなれないよ」と言われても、仕方のないことだ。だってまるで授業にならないし、先生方も寝ている生徒がいれば気分が悪いだろうし、誰の利益にもならない事だと思ったからだ。

薬を飲むのを止めてしまうと、病気の症状は更に悪化した。
時々の発作で起きる事だが、眼球まで勝手に動くようになって、真っ直ぐ前を見続けることすら困難になった。自力で意識的に前を向くよう、眼球にまで力を籠めて姿勢を保持しなければならない苦しみを、誰が分かってくれるだろう。
こうなると、慌てて薬を二回か三回分は飲んで、無理矢理発作を鎮めるのだが、それにも効き始めるにはタイムラグがある。
こうした眼球が裏返る発作を止めるには、何か近場にある文字列を読むのが便利だった。シャンプーの容器でも、菓子の包み紙でも何でもいい。成分表や道具の文字列を読むよう、視線を制御しながら何度も目で追って、声に出して朗読していると、何もせずじっと休んで我慢をしているより、随分と楽だった。
しかし、発作が治まったあとも辛かった。
強い薬を一気に数回分も飲むのだから、体への負担は大きく、その日一日中は極めて強い吐き気に悩まされることになる。
休日は何もする事がない。ただ、昼間に起きているのが嫌で、貰った睡眠薬を一気に飲んで、気を失うようにして眠った。それでも長くは眠りが続かず、午後にはいつも起きてしまう。今度はまた睡眠薬の量を増して飲んで、また眠った。
こうした事を続けていると、貰った睡眠薬はすぐに底を尽きてしまう。二週間分の薬をたったの一週間で飲み尽くしてしまって、苦痛に耐え切れずにまた病院へ行った。お金はすぐになくなったし、先生にも嘆息されたが、現実に生きているだけで猛烈な不安と苦痛に襲われる俺にとって、眠ることだけがほとんど唯一の安息だったのだから、この悪癖はこの後何年も続くことになる。

じき、クラスへ登校することさえ憂鬱になった。
五人ほどの男子グループは明らかに俺を嘲笑し、実際的な暴力を含めた排除行動に出るようになったし、他の殆どすべてのクラスメイトも、俺を怪訝な、冷ややかな目で見ている。
談笑の沸いていた楽しげなクラスに、俺が一歩入った瞬間、教室が静まり返り、くすくす笑いがそこかしこに漏れる。こうした記憶は、生涯忘れることはないだろう。
それからさほど遠くないうちに、俺の仇名は「障害者」になった。
授業の全てを休みがちになり、朝から教室に直行することは殆どできなくなって、保健室登校の人間になった。
実際に何かをされて、教師たちに「誰にやられたんだ?」と詰問されても、具体的に誰だとか名前を言う事ができない。クラスメイトの名前なんて覚えてもいなかったからだ。写真を出してくれれば指すこともできただろうが、そういった事を口に出す気力も勇気もなかった。

ただ幸運があったとすれば、当時は少年バスジャック事件や、酒鬼薔薇聖徒といった凶悪な少年犯罪が世間を賑わせていた頃で、教職員から明らかに問題視されていた俺は、学校からとても手厚いケアを受けられることになったことだ。
とても立派な応接室に招かれて、校長先生や教頭先生、学年主任の先生が、一同で自分の話を聞いてくれた事もあった。
授業数の五分の一までは欠席しても、進級のための単位を認めてくれる約束さえしてくれた。

学校に行くことが、とにかく苦痛で仕方がなかった。
例えば体育の授業が始まると、俺はそっと場から抜け出して、別の所で過ごした。
屋外で、クラスメイトが別々の班に分かれ、テニスやサッカーに興じている頃、俺は彼らの目の届かない用具倉庫の中で、延々と壊れた備品を撫でていたり、ぼうっと空や、校庭の木々を見て時間を潰した。
体育館での授業も同じで、そそくさと出て行く俺を一通りクラスメイトが笑って、その後は一階の階段の陰とか、とにかく彼らの視界に入らない所でじっとしている。
ごく稀に、体育教師が自分を相手に誘ってくれることがあった。バドミントンや、そういった科目でだったが、まるで身体の動かない俺には、どれもまともにこなせた試しがなかった。木偶人形のような、人間らしい動き方すらできない俺を見て、彼らはどう思ったのだろう。未だに申し訳なさで胸が塞がる思いだ。

昼食なんて、どうやっても教室の中では食べる事ができないので、学校の中を彷徨い歩いたあと、その時間帯には基本的に誰もいない、職員室前の大会議室で取っていた。これは後で先生に見つかり、どうしてこんな所に居るのか、昼食は決められた場所で食べるべきだと言われたが、他に行くところがないのでどうしようもなかった。カフェテラスやロビーは沢山の生徒が陣取っていたし、幅広の廊下に置かれたベンチだと人の目が恐ろしかったし。結局、その後も自発的にはこの習慣を直すことはできず、呆れた先生方に「別棟三階の書道室を使ってもいい」と言われて、本当に安堵したのをよく覚えている。
書道室は、授業としては自分に縁のない場所だったが、生徒が集う教室の集中した棟からはかなり距離があるので、よっぽどの用事がなければ、他の生徒はここに訪れることは無かったからだ。三階で眺めも良く、静かで、昼休みの時にしか来る事はできないけれど、とても救われる場所だった。

授業中は筋肉を押さえつけるのに精一杯か、あるいは眠気を耐えながら過ごすしかなかった。殆どのテストには何も書くことができず、最初の頃は氏名を記すことさえおこがましく思えて、そのまま名前さえ書かずに提出していた。後で先生方から「名前だけでも書いてくれ」と言われてこの悪癖は治ったが、生まれて初めて味わう0点という結果がどれほど惨めだったか、今でも忘れられない。

クラスメイトの和の中で、自分はあまりにも異分子で、邪魔な人間だった。
彼ら彼女らの傍に行くと、纏っていた筈の朗らかな空気がみな掻き消えて無くなった。
何をするにも足手纏いだった。
早くこの学校から消え去ってしまった方が、誰にとっても喜ばしく、嬉しい出来事だろうのに、高校卒業の資格を取りたいばかりに皆に迷惑を掛け続けている、あまりに自分本位な、我儘な自分が本当に嫌だった。

だが、そんな中でも、時折廊下やあれこれのイベントで出会うS井さんとはまだ親交を保っていたのは、俺の学校生活の中で数少ない救いだったと思う。とはいえ、顔を合わせれば挨拶をし、彼女の校内発表があれば観に行って、終わった後に感想を語るくらいだったが。あの人の存在が当時の俺にとって、どれほど心の支えになっていたことだろう。
また、月に二度ほど通う病院では、たった一度だけ、院長先生の奥さんに、お煎餅を一枚貰ったことがある。学校が終わった後に訪れるものだから、いつも辺りはすっかり暗くなって、病院の閉まる数十分前、滑り込むように受付を済ませるのが常だった。彼女は「なんだか○○そうだから」と微笑んで、透明のビニールに包まれた薄いお煎餅を渡されたのだった。"可哀想だから"という言葉ではなかった気がするが、確たる事は覚えていない。
こうした、ほんの時折に訪れる微かな幸福を継ぎ接ぎするようにして、やっとの思いで日々を生き永らえているような人間だった。

何年次かは覚えていないが、二年次か三年次の学園祭があった。当時の俺の役割分担は思い出せない。何か当番を与えられていた気もするし、そうでなかったかもしれない。授業が終わったり、あるいは授業時間を学園祭の準備に割り当てられる度に教室を逃げ出していたから、何の役割を与えられていたのか、どうしても思い出せないからだ。
学園祭当日になって、教室には行ったものの、準備と開催の何やかやを横目で眺めた後、教室を出てうろうろと、賑やかな校舎を彷徨った。
なんだかんだ言っても、こうした明るい空間は好きである。お化け屋敷やら何やら、あっちこっちの出し物を特に目的も脈絡もなく体験して、時折自分の教室に戻った。
教室の出し物は、蕎麦屋だった気がする。いや単純に何らかの飯屋であって、提供している食事のメインが蕎麦なだけだったかもしれないのだが、それだけ当時に食べた蕎麦の印象は強い。教室の端、ベランダに面した一席を陣取って食事をしていると、人気の少ない教室の中、じいっと不安そうに、あるいは露骨に警戒の視線をこちらに向けてくるクラスメイトを見ると、微笑ましい気持ちになったものだ。俺は別に、突然教室内でナイフを振り回したり、自殺をおっぱじめるタイプの落伍者ではなかったのだが、当時の世相からして、そういった目線で見られても仕方のないところはある。
俺は当時から、そうしたクラスメイトたちが特段に嫌いではなかったし、むしろ今になっても、尊敬の気持ちも少なからず抱いている。とはいっても、名前も顔も、もう思い出せないのだが。彼らたちと、まるっきり赤の他人として付き合うことができれば、どれだけ楽しかったことだろう。ただの一人の客として、合法的にクラスの中に入る事ができたあの時間は、自分にとってかけがえのない思い出になっている。

そんな風に、半壊した学生生活を続けながら三年次に進級した。担任の先生は、30代後半ほどだっただろうか、とても温厚で誠実な、良い人柄の男性の方で、今でも尊敬しているが、今どこで何をしているかは、まるで分からない。去年に年賀状を送ったけれども、返事は未だ届かないままだ。

状況は何も変わらないまま、修学旅行の時期になった。
お金は積み立ててあるから、けっして行けない訳ではないのだけれど、俺は必死で、泣いて嫌がった。担任の先生は最後の最後まで、俺に行って欲しいと説得をしてくれたけれど、俺はどうしても嫌だった。今でもこの選択は後悔していないけれども、思い出すだけで惨めな気分になる。
他の生徒が修学旅行に行っているあいだ、授業こそ無いとはいえども、学校には登校しなければならない。その日は、緞帳のように厚い雲が空を覆い尽くした、凄まじい豪雨の日だった覚えがある。外の校庭でさえ真っ暗で、三年次の教室がある校舎は、それこそまるで夜のようだった。
教室で自習という訳にも行かず、自分はあまり馴染みのない、一階の校舎に連れて行かれた。図書室の向かい側にある、購買などのあるサロンへ繋がる部分で、渡り廊下を巨大化したような作りに、そのまま教室が並んでいる場所だ。校庭に面した校舎だから、放送室や進路相談室などがある事は知っていたが、実際に足を運んだことは殆どなかった。
俺が連れて来られたのは、放送室の隣の部屋だった。とても新しい部屋のようだ。明るい蛍光灯の光に照らされた綺麗な白い壁が印象的で、教室の半分ほどの部屋の中には、ほとんど調度品も何もない。ただ唯一、校庭に面した窓際に、使い古された灰色のオフィス机と椅子があった。「ここで一日、自習をしていて欲しい」と言い渡されて、俺は素直に了解した。
真っ暗な外の景色と、ごうごうと響く雨音、それとは対照的に静まり返った、光量の強い蛍光灯に照らされる真っ白な部屋の中は、あまりにも鮮明な光景で、今でも強く記憶に残っている。
珍しい風景を眺めつつ、午前中は静かに自習をしていた。一年の頃の数学の教科書を持ってきて、まだおぼろげに解法を覚えている、最初の頃の課題をやり直す。もう二年や三年の授業にはまるでついていけないけれど、これくらいの頃の勉強なら、微かに解き方が記憶の底に残っていた。実際に俺は、とりあえずのところ高校卒業の資格を持っている人間だが、実際の学力は中卒程度もない人間だ。職場の同僚や友人にこれを話すと、「さっさと中退すれば良かったじゃないか」と笑われるが、自分では特に間違った判断だとは思っていないでいる。
昼ごろになると、食事を取りに部屋を出た。相変わらず三年次の校舎の中は真っ暗だった。明るい照明が着いている場所であっても、そこには独特の雰囲気がある。とても湿ってじめじめした空気と、薄く泥の張った滑る床。はるか遠くの校舎からは、騒がしい、ひとびとの笑い合う声が微かに響いて来て、自分がとても不思議な空間に迷い込んできたような錯覚を覚える。俺はそのままパンを一つだけ買って、いつも過ごす三年次の教室へ行くことにした。
廊下の端から端まで、人気のない校舎。薄暗く静まり返った教室は、まるで放課後のようだった。教室に何が置いてあったかは覚えていないが、個人の持ち物が、ほうぼうの机の上に何個かあったような気がする。
自分の机にそっと座って、教室を見渡した。外は既に暴風雨になっている。不思議と落ち着いた、穏やかな気分のままゆっくりとパンを食べて、それからたっぷり30分は、そのまま教室の中で過ごしていたような気がする。
それから数日の間はそうして過ごしていた。何事も無く終わった数日間だったが、この時に覚えた多くの感覚やモチーフ、風景や光景は、当時から今までの八年ほどの間、いくらかその形状を変えつつも、絶えず夢の中に現れたり消えたりを繰り返している。

そうこうしているうちに、じりじりと卒業の日が近づいて来ていた。
定期テストで赤点を取る事はだんだんと少なくなって来ていたが、それでも成績はぎりぎりだったのに、なぜ自分が卒業できたのか、今でも不思議に思えてならない。こんな生徒に留年をされても迷惑だからだろうか、それとも先生方のお慈悲だったのだろうか。何が理由かは、自分には永遠に分からない事だが、それでも有り難い事には変わらない。

卒業式の内容がどうであったかは、まるで記憶に残っていないのだけれど、式典が終わり、最後の授業も恙無く締め括られたあと、俺はS井さんの教室に向かった。いつもと変わりのない、多くの友人に囲まれた女性だったが、大事な話があるからと時間を貰って、迷惑千万にも教室から連れ出したのだった。端的に言うと、それから彼女に三年間の感謝を述べて、「好きだ」と告白をして、賢明な判断にもすっぱり振られたのだが、もとより自分の気持ちを伝えることが目的だったのだから、後悔や残念な気持ちなんていうものは微塵もない。S井さんのご友輩に「未来の旦那さん?」と言われたのがひたすら嬉しくて、今でもよく覚えているが、当のS井さんはただ微笑んで、俺はゆっくりと首を振るだけだった。それから二人で写真を撮らせて貰ったのだけれど、現像した写真を送ろうかという申し出は、その場で断っている。メールアドレスも交換しなかった。
俺はもう、この学校の何もかもとは、まるっきり縁を切るつもりだったし、思い出も、自分が居たことさえも全て、すっかりなかった事にするつもりだった。実際にS井さんとの親交を含め、恩師に宛てた年賀状を、微かな文章を添えて便箋で送った以外は、あの学校の人間関係は何もかも潰えている。中学校時代の同窓会は、既に二度ほど出席しているが、高校時代の人間からは、そうした連絡はまったくの皆無だ。それでも構わないと言えば構わないのだが、もう名前も覚えていない彼らの顔を、また眺めてみたいという思いには、時折駆られることがある。そうした会合があるのなら、ほんの五分か十分ほど様子を眺めて、皆が元気そうなのを確認すれば、すぐに帰るつもりではあるけれど。S井さんも当時から器量のいい女性だったし、もう家庭を持っていてもおかしくないだろう。今をどうしているか、けっして気にならない訳ではないのだけれど、自分はもう、顔を合わせることすらできない、動く死体のような人間になってしまった。いつか花の一束でも贈りたいとは思っていたが、これは恐らく実行することもなく終わるだろう。
卒業文集も行方不明になって久しく、家のどこを探しても見当たらなくなってしまった。卒業式のあと、自分でどこかのどぶに投げ捨てたような記憶もあるにはあるが、ほんの数年前に自宅のどこかの本棚で見付けたような記憶もあり、その存在は非常に曖昧だ。そのうち忘れた頃に、ひょっこりとまた出て来るかもしれない。

あの高校を卒業したと同時に、自分という人間は一度死んだのだと思っている。あれはもう既に前世の出来事で、いまの自分とはもう別の人間の人生なのだと、そうして気持ちを処理するようになって、随分と月日が経った。過去とは一度断絶した上で、また人生をやり直している人間は、世間には意外と多いのではないか。書類や経歴の上では確かにメリットになっているのだから、別に気にすることもないのだし、それについて批判するような人間にも出会ったことはない。むしろ最近は、18歳という早期に一度人生が壊れてしまったというのは、逆に有益なのではないかと考えてもいる。これが30代や40代からの挫折であったのなら、その人間はもう取り返しがつかないように思うからだ。

高校を卒業してからの人生は、今はまだ語りたくない段階だ。これもじき、時間の流れの中で感傷が風化することによって、自分の中で整理がつき、赦す事ができるようになって初めて、文章として残すことができるのだと思っている。

virthsmall.jpg
posted by TRBRCHDM at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | その他
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