
とはいえこちらは十日の写真なのですが。
とあるお部屋の掃除をしていると、一番最初に病気の発症した頃、高校時代の教材や試験の結果が積み上げられた、三つほどの段ボールが出て来ました。
名前しか書いていない、あるいは名前も書いていない小テスト。回答用のマークシートがまだ付いたままの模試。二年の頃の個人成績表が出て来て、全部の素点の欄が0点だった。偏差値は7.3だって!この時にはまったく酷い怒られ方をしたらしく、後の成績ではまだしもまともな向き合い方をしている様子が見て取れます。でも、同じくらいの頃の国語の模試では偏差値65とかちゃんと取ってるみたいで、嬉しかったなー、自分がまるっきりのクズじゃなかったみたいで。成績の急降下し始めたのは二年の七月くらいで、実際の資料(と言うと大袈裟だけれど)を基にすると、やっぱり過去のブログ記事に書いた記憶の記述と実際との違いが如実に分かります。ノートなんて最初の数ページしか文字が書かれていないままで、後はほとんど白紙のまま残されていたりするし。平成十三年度九月の共同宿泊学習の案内書があるのだけれど、参加承諾書が切り取らずにまるで白紙で素のまま残っていたりもしました。こんな行事があったなんてまるで記憶にもないし、きっと行かなかったんだね。班別に行動に違いがあったらしく、ブリティッシュヒルズコースとか那須ハイランドパークコースとか、那須美術館・博物館散策コースやら、色んな所に行ったみたいです。当時の俺がどんだけ絶望的な気持ちになり、必死に嫌がったのかありありと分かりました……。後になると進研模試の大学志望校判定とかあるけれど、こんな時期の俺にまったく何をやらせているのだか。とはいえ全校一斉の模試なのだから拒否権なんて無かろうものだが、実際の出来も酷いもので、英語とか0点のまま提出してるみたいだから教科不足も当たり前、参考判定Eまみれですよ!しかしながら、当時の自分が大学に行かなかったのは、まったく正しい選択だったと今でも胸を張って言えるのです。
あと同時に一枚くらい、日付に平成十四年十一月とある血液検査の紙が出て来たけれど、ちゃんとご飯は食べていた覚えがあるのに血糖値が低いのなんの。空腹時の数値が70程度ってあるのに、検査結果は68しか数字がないんだもんなぁ。当時は一体どんな生活をしていたのやら。とはいうものの、一番の問題だった筈の甲状腺の数値がどれなのかがさっぱり分からない。数字の高すぎるやつを探せばいいのかな?
結局CβTは殆ど何もできないまま終わりを迎えてしまいそうです。こんな自分が応募なんてしなきゃ良かったかな。シリアルコードが二つもあっても仕方なかったし。
サイズの小さなテレビだと、画面に表示される文字が全部潰れてしまって、ゲームが思い通りに進行できないのが一点。あと傭兵を雇う際に失敗することが多過ぎるのが一点。俺がCβTのプレイで感じた不都合な点はこれくらいでした。
さーて、今日も遅くから夜勤なのですが、凶悪無比な三連勤です。ミスってばかりのお仕事だけれど、あんまり怒られ過ぎて心が折れないようにしなきゃーね!