2012年01月08日

20120108 PENTAX K-r

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昔からこの現在に至るまで、この自分という一人の人間は、心身も何もかもが未熟で脆弱でした。もしあのまま、仮に健全に、あるいは順風満帆に、何の問題もなく高校を卒業できていたとして、そしては真っ当な大学生になっていたとしても、いつか自分は確実に挫折を味わい、同じ状況に陥っていたものと思います。それならばむしろ、こうした挫折を人生の早い段階で経験したことは、むしろ幸運なことだったのではないかと、最近はそう思うようになりました。
自分だけではなく、この世界中の人々は誰しも未熟なのだと思います。親であろうと、教師であろうと、誰もが完璧に職務を尽くし、責任を全うすることなどまるで不可能なことだと思うのです。彼らの誰であっても、当時の自分を救うことはできなかったでしょう。自分の罹ったのは、肉体的な、物理的な部分に起因する病気なのですから。
当たり前の事ですが、かつての級友たちとて、人間としてはまだ未熟だったのでした。どれだけ理不尽な目に味わわされたとしても、自分は、彼らを許さなくてはならないのだと思います。


新年を迎えたのを節目に、新型機を導入しました。PENTAX社製のK-rです。以前から友人にはPENTAX社のカメラをしつっこいほど奨められていたのですが、その友人の持つコンデジを何度も触らせて貰った上で、俺の持つEX-ZR10の性能に若干の疑問を持つほどの高性能ぶりに、少なくない関心を抱かされたものです。
事実上、生産終了品ということでかなり安く販売されており、そこが一番のポイントだったのでして(次点はそのデザインです。かっこいい!)、性能の点では未知数ですが、まぁ腐っても一眼レフという事で、最低限の機能だけでも果たしてくれればそれで十分万々歳だと思います。

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2011年08月12日

20110812 Naturalism

昨日の正午前にテレビの購入契約をして来たら、帰りの道中で酷く疲れてしまって、途中途中のコンビニとか路上で車を停めながら仮眠をしつつ、二時頃に家に戻って就寝したのです。それから暑さと寝苦しさ、ドでかい地震などではたと起きる事があっても、水分やら軽食やらを摂って二度寝三度寝を駆使し、結局起床したのは翌朝の五時でした。やっぱり、夜勤が始まるとどうも生活習慣が乱れがちになりますね。合間合間にきちんと休日を貰えなければ、こんな仕事到底やってけません。
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とはいえこちらは十日の写真なのですが。

とあるお部屋の掃除をしていると、一番最初に病気の発症した頃、高校時代の教材や試験の結果が積み上げられた、三つほどの段ボールが出て来ました。
名前しか書いていない、あるいは名前も書いていない小テスト。回答用のマークシートがまだ付いたままの模試。二年の頃の個人成績表が出て来て、全部の素点の欄が0点だった。偏差値は7.3だって!この時にはまったく酷い怒られ方をしたらしく、後の成績ではまだしもまともな向き合い方をしている様子が見て取れます。でも、同じくらいの頃の国語の模試では偏差値65とかちゃんと取ってるみたいで、嬉しかったなー、自分がまるっきりのクズじゃなかったみたいで。成績の急降下し始めたのは二年の七月くらいで、実際の資料(と言うと大袈裟だけれど)を基にすると、やっぱり過去のブログ記事に書いた記憶の記述と実際との違いが如実に分かります。ノートなんて最初の数ページしか文字が書かれていないままで、後はほとんど白紙のまま残されていたりするし。平成十三年度九月の共同宿泊学習の案内書があるのだけれど、参加承諾書が切り取らずにまるで白紙で素のまま残っていたりもしました。こんな行事があったなんてまるで記憶にもないし、きっと行かなかったんだね。班別に行動に違いがあったらしく、ブリティッシュヒルズコースとか那須ハイランドパークコースとか、那須美術館・博物館散策コースやら、色んな所に行ったみたいです。当時の俺がどんだけ絶望的な気持ちになり、必死に嫌がったのかありありと分かりました……。後になると進研模試の大学志望校判定とかあるけれど、こんな時期の俺にまったく何をやらせているのだか。とはいえ全校一斉の模試なのだから拒否権なんて無かろうものだが、実際の出来も酷いもので、英語とか0点のまま提出してるみたいだから教科不足も当たり前、参考判定Eまみれですよ!しかしながら、当時の自分が大学に行かなかったのは、まったく正しい選択だったと今でも胸を張って言えるのです。
あと同時に一枚くらい、日付に平成十四年十一月とある血液検査の紙が出て来たけれど、ちゃんとご飯は食べていた覚えがあるのに血糖値が低いのなんの。空腹時の数値が70程度ってあるのに、検査結果は68しか数字がないんだもんなぁ。当時は一体どんな生活をしていたのやら。とはいうものの、一番の問題だった筈の甲状腺の数値がどれなのかがさっぱり分からない。数字の高すぎるやつを探せばいいのかな?

結局CβTは殆ど何もできないまま終わりを迎えてしまいそうです。こんな自分が応募なんてしなきゃ良かったかな。シリアルコードが二つもあっても仕方なかったし。
サイズの小さなテレビだと、画面に表示される文字が全部潰れてしまって、ゲームが思い通りに進行できないのが一点。あと傭兵を雇う際に失敗することが多過ぎるのが一点。俺がCβTのプレイで感じた不都合な点はこれくらいでした。

さーて、今日も遅くから夜勤なのですが、凶悪無比な三連勤です。ミスってばかりのお仕事だけれど、あんまり怒られ過ぎて心が折れないようにしなきゃーね!
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2011年06月08日

20110608 Social Reworks

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生きるための小手先の技術が多少上手くなった程度で、俺の本質はあの小さな子供の頃から、なにひとつ前進なんてしてはいないんだ。病院を出てから、駐車場に停めてあった車内でずうっと泣いてた。結局みんな俺に愛想を尽かして離れて行ってしまうんだと思うと、どうして俺は人間なんかに生まれて来たんだろうかって思う。虫とかカビとか黴菌ぐらいがお似合いだよ。「嫌わないで欲しい」って思う度に、みんなが嫌な気持ちになるんだよね。優しくしてくれる人を大切に、大事にしようって思っていても、全部が裏目に出てしまうね。

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土浦駅近くにある立体駐車場のトイレ。無味乾燥で機能的な巨大施設の片隅に、こうした人間的な施設がぽつんと存在していると、とても安らぎというか、安堵感を覚える。殆ど誰も利用しないような場所にひっそりと在るこのトイレは、俺にとってとても思い出深い場所です。
高校の頃、殆ど顔も知らない級友から遊びに誘われて、どきどきしながら待ち合わせの土浦駅に行ったんだよね。約束の時間から二時間も三時間も過ぎても誰も来なくって、とうとう夜の七時頃になってもまだ待ってた。それから、このトイレの中に引き籠って、馬鹿みたいにわんわん泣いてた。
そうした事が三回くらい続いて、その度に俺は真っ暗になるまで駅前で待って、最後にはいつもトイレで愚図ってた。ものすごく惨めだったよ。自己憐憫と諦念でしか生きていけなくなった自分の、象徴的な出来事だった。
あの時から俺は、自称他称問わず"友達"という言葉に非常な不信感を持つようになった。その最たる例がハイランド管理陣こと峠家さんとの関係で、彼ら彼女らがどうして自分にああいう形で接してくれるのか理解できず、いまから思えば呆れたことに、月日が経つにつれ段々と猜疑心を覚えるようになった。最後には暴言を吐いて嫌味を言って、とうとうそれっきり冷めきってしまった。こうした恩知らずそのものの行動がやっと治り始めたのも、ほんのここ一年か二年くらいのものです。いや、実はまだぜんぜん治っていないのかもしれません。
人から愛されたいとは思うし、誰かが自分に佳くしてくれるのはとても嬉しいけれど、しかしその感情のまるで裏返しのように、底の見えない、どこまでも追われるような逃げ場のない恐怖を感じます。やっとの思いで仲良くなった友達が自分に失望し、そのまま離れて行く悲しみは、自分にとってとても堪えられない事です。

もし人生の目的を達成できたなら、その後は見苦しく生き恥晒さないように、すぐにここからいなくなろうと思っている。どうせ俺は天国なんて行けない人間だって知っているし、人に迷惑をかけて嫌われ続けて生きるのが、何より怖くて嫌だから。

夜勤続きのせいか三時頃の朝方にむっくり起きてしまったので、とりとめもなくPS2を引っ張り出して来てガタガタ遊んでました。
アーマードコア2アナザーエイジ。パーツのデザインが(一部を除き)非常に秀逸なので、今でも大好きなシリーズの一つです。今回は非常に貧弱なアセンブリで、ゲーム中でもトップクラスのエネミーに挑んでいます。2シリーズは軽量級にとって、長い長い冬の時代でした。
AC4〜fAのライフルに慣れていると、いざ旧作のACに入るなりその貧弱低火力っぷりに唸りますね。総合力ではハンドガンにさえ劣る武器……。この機体ではほとんど小型ミサイルが主力ダメージソースです。
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2011年05月11日

20110511(2) 思い出ばなし #3

すみません、とても読み辛いと思います。

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高校に入ってすぐは、とても順調な滑り出しだった覚えがある。
高校一年の一番最初、俺の近場の席となった女子生徒に、S井さんという方がいた。S井さんは分け隔てのない、朗らかで明るい人で、席のすぐ隣だった俺には積極的に話しかけてくれて、じき仲良くなったのだった。成績も優秀だったし、スポーツも得意で、所属は確か吹奏楽部か、そういった音楽系の部活だった覚えがある。生活も品行方正で、驚くほど隙がない。席替えで離れてしまって早々、定期試験の現代文で一位を取った俺だが、廊下に張り出された紙を眺めて、S井さんも数学で一位を取っていたのを目にして、とても嬉しくなったのを覚えている。その後、S井さんと教室でばったり出会うと、「一位おめでとう!」と笑顔で言ってくれて、驚きと同時に感動した俺はろくに二の句も告げず、「ありがとう、あなたも。」と絞り出すのが精一杯だった。まだ親しい友人も校内に居なかった俺にとって、その出来事がどれだけ救いになったか。

高校一年次の、三学期か、それくらいの時期だったと思う。
最初に奇妙な違和感を覚え始めたのは、まず自分の身体だった。

手がやけに引き攣るような感覚がして、力の加減ができなくなった。
シャーペンを握ろうとすると強く握り過ぎてしまい、五分も書き物をしているとそれだけで疲れてしまう。逆にそっと握ろうとしたら、今度は力が軽過ぎてペンの胴を保持することさえできない。
この不可解な身体の違和感は、じきに脚にも伝播し始めた。
まともなフォームで歩くことができない。まるで脚が歩き方を忘れてしまったように、強張った歩みしかできなくなってしまった。
歩こうとすると、外見からはあまりにも異常な歩き方で歩いてしまうので、仕方なく「普通の歩き方」を強く意識して、他人の動きを真似て歩くしかない。
これもまた凄まじく疲れる日常だったが、自分もこうした異常が理解できず、相談は誰にも、どこにも出来なかった。
担任の先生は良い方だった。明らかに異常な不調を示し始めた俺に目敏く気付いて、何度も心配の声を掛けてくれたし、特別に家庭訪問もしてくれた。だが、当時の俺は自分がどうなっているのかまるで分からなかったし、まともな対応もできないまま、彼の厚意から逃げているばかりだった覚えがある。恩人である彼が、いまどこで何をなさっているのか、まるで把握できていない。去年に年賀状を送っても、住所不明で帰って来てしまった。高校時代に友人など一人もできなかった俺は、そのまま誰に消息を聞くこともなく過ごしている。

次に起こり始めた症状は、夜の不眠と、昼間の凄まじい眠気だった。
俺はもともと、小さい頃から寝付きの悪い人間で、布団に入るのが例え十時ほどでも、夜の一時まで寝付けないくらいが普通のことだったのだけれど、
高校に入ってからの寝付けなさは、これはもうはっきり不眠症と言ってもいい程だ。
一時どころか明け方の五時近くまで眠れないのは日常茶飯事で、酷くなると通学のための起床時刻まで、一切まったく眠ることができない、徹夜の状態だった。
夜に眠れないことによる疲労と負荷は昼間に押し寄せて来て、有り得ない事になんと授業中に眠ってしまう事態が頻発。
最初の一回こそ、先生は笑って許してくれたが、二回三回と続くと激怒し、しかしそれが更に続くようになると、「一体どうしたんだ?」と教職員室で心配してくれる程になった。
しかし、自分でも何が原因なのか分からない。いや、原因は分かっているのだが、それが何故起きてしまっているのかは全く見当もつかない。
結局、か細い声で、「すみません。」と言う他なかった。

二年次に進級すると、異常な身体の強張りは、更に悪化の一途を辿った。
筋肉が勝手に緊張してしまい、椅子に座っている姿勢を保っているだけで、身体をガチガチに、意識的に抑えつけなければならない。舌や顎が引き攣るというのは、更に凄まじい苦痛だった。
家で休んでいるときでさえ、一瞬でも気を抜けば、そのままその場でのたうち回りそうなほど、全身が強張っていて少しも休むことができない。
当然の事ながら、まるで授業に集中することができず、成績は明らかに急降下していった。
とにかく真面目で従順だった俺の、異常な成績の低下具合に気付いたのは、まず誰よりも教職員である先生方で、みな誰も彼もが俺を心配してくれたのだが、俺にも原因は分からないのだから「わかりません」と返すか、あるいは明らかにその場凌ぎの嘘でやり過ごすしかなかった。
両親の狼狽はもっと酷く、ほとんど半狂乱で何かを言って来たが、俺には何の反論もできない。
級友たちも、それはそれは敏感に、異常な挙動を示すようになった俺に気付いたようで、明らかに遠巻きにするようになった。その頃はもう身嗜みに気を付ける事すらできず、散髪さえ疎かにしがちで、寝癖だらけのぼさぼさの髪を晒して行くものだから、皆うんざりしていたことだろう。青白いを通り越して土気色になった不健康な肌に、生気の無い目をしていたし、肌荒れも酷くて、こんな人間はさぞ目障りだった事だろう。

親に自分の体調不良を相談できて、やっと病気だということを打ち明けることができたのは、夏休みも終わってしばらくのことだった。
最初はどこの病院に掛かればいいのかも分からず、何軒かの内科をたらい回しに点々としていたが、ある時に、一軒の心療内科医を紹介された。
そこはキリスト系の医院で、斜視の医師だった。
彼は俺の病名を『自律神経失調症』と言ったが、その時のその言葉は、実は方便だった事が後で分かっている。
血液検査の結果で、「甲状腺ホルモンが異常な高い値を示している。」と言われたが、当時の自分には何の事だかも理解できなかった。
けれども、彼に処方された薬は驚くほどの効き目があったし、またとても穏やかで、物静かな人物で、自分はすぐにそこの診療所が気に入ってしまった。
ただ、問題はその薬が、あまりにも効き過ぎることだった。
睡眠導入剤(つまりは睡眠薬だ)として渡された薬を飲むと、学校の日の朝には全く起きられない。辛うじて起きられたとしても、通学の間はほとんど眠っているのと同じ状態で、学校の授業中に起きている事さえ極めて困難だった。これは薬を弱めても状況は改善しなかった。
同じように、身体の痙攣を抑える薬を飲んでも、副作用である異常なほどの眠気に悩まされた。本来から「ちょっと眠くなり易い薬だから」と言われて処方されても、既定の分を飲んでしまえば、もう翌日の授業は絶望的だった。
結局この睡眠導入剤と、治療のための薬は、どちらも数か月もしないまま、自分で飲むのを止めてしまった。
医師からは「飲まなきゃ良くなれないよ」と言われても、仕方のないことだ。だってまるで授業にならないし、先生方も寝ている生徒がいれば気分が悪いだろうし、誰の利益にもならない事だと思ったからだ。

薬を飲むのを止めてしまうと、病気の症状は更に悪化した。
時々の発作で起きる事だが、眼球まで勝手に動くようになって、真っ直ぐ前を見続けることすら困難になった。自力で意識的に前を向くよう、眼球にまで力を籠めて姿勢を保持しなければならない苦しみを、誰が分かってくれるだろう。
こうなると、慌てて薬を二回か三回分は飲んで、無理矢理発作を鎮めるのだが、それにも効き始めるにはタイムラグがある。
こうした眼球が裏返る発作を止めるには、何か近場にある文字列を読むのが便利だった。シャンプーの容器でも、菓子の包み紙でも何でもいい。成分表や道具の文字列を読むよう、視線を制御しながら何度も目で追って、声に出して朗読していると、何もせずじっと休んで我慢をしているより、随分と楽だった。
しかし、発作が治まったあとも辛かった。
強い薬を一気に数回分も飲むのだから、体への負担は大きく、その日一日中は極めて強い吐き気に悩まされることになる。
休日は何もする事がない。ただ、昼間に起きているのが嫌で、貰った睡眠薬を一気に飲んで、気を失うようにして眠った。それでも長くは眠りが続かず、午後にはいつも起きてしまう。今度はまた睡眠薬の量を増して飲んで、また眠った。
こうした事を続けていると、貰った睡眠薬はすぐに底を尽きてしまう。二週間分の薬をたったの一週間で飲み尽くしてしまって、苦痛に耐え切れずにまた病院へ行った。お金はすぐになくなったし、先生にも嘆息されたが、現実に生きているだけで猛烈な不安と苦痛に襲われる俺にとって、眠ることだけがほとんど唯一の安息だったのだから、この悪癖はこの後何年も続くことになる。

じき、クラスへ登校することさえ憂鬱になった。
五人ほどの男子グループは明らかに俺を嘲笑し、実際的な暴力を含めた排除行動に出るようになったし、他の殆どすべてのクラスメイトも、俺を怪訝な、冷ややかな目で見ている。
談笑の沸いていた楽しげなクラスに、俺が一歩入った瞬間、教室が静まり返り、くすくす笑いがそこかしこに漏れる。こうした記憶は、生涯忘れることはないだろう。
それからさほど遠くないうちに、俺の仇名は「障害者」になった。
授業の全てを休みがちになり、朝から教室に直行することは殆どできなくなって、保健室登校の人間になった。
実際に何かをされて、教師たちに「誰にやられたんだ?」と詰問されても、具体的に誰だとか名前を言う事ができない。クラスメイトの名前なんて覚えてもいなかったからだ。写真を出してくれれば指すこともできただろうが、そういった事を口に出す気力も勇気もなかった。

ただ幸運があったとすれば、当時は少年バスジャック事件や、酒鬼薔薇聖徒といった凶悪な少年犯罪が世間を賑わせていた頃で、教職員から明らかに問題視されていた俺は、学校からとても手厚いケアを受けられることになったことだ。
とても立派な応接室に招かれて、校長先生や教頭先生、学年主任の先生が、一同で自分の話を聞いてくれた事もあった。
授業数の五分の一までは欠席しても、進級のための単位を認めてくれる約束さえしてくれた。

学校に行くことが、とにかく苦痛で仕方がなかった。
例えば体育の授業が始まると、俺はそっと場から抜け出して、別の所で過ごした。
屋外で、クラスメイトが別々の班に分かれ、テニスやサッカーに興じている頃、俺は彼らの目の届かない用具倉庫の中で、延々と壊れた備品を撫でていたり、ぼうっと空や、校庭の木々を見て時間を潰した。
体育館での授業も同じで、そそくさと出て行く俺を一通りクラスメイトが笑って、その後は一階の階段の陰とか、とにかく彼らの視界に入らない所でじっとしている。
ごく稀に、体育教師が自分を相手に誘ってくれることがあった。バドミントンや、そういった科目でだったが、まるで身体の動かない俺には、どれもまともにこなせた試しがなかった。木偶人形のような、人間らしい動き方すらできない俺を見て、彼らはどう思ったのだろう。未だに申し訳なさで胸が塞がる思いだ。

昼食なんて、どうやっても教室の中では食べる事ができないので、学校の中を彷徨い歩いたあと、その時間帯には基本的に誰もいない、職員室前の大会議室で取っていた。これは後で先生に見つかり、どうしてこんな所に居るのか、昼食は決められた場所で食べるべきだと言われたが、他に行くところがないのでどうしようもなかった。カフェテラスやロビーは沢山の生徒が陣取っていたし、幅広の廊下に置かれたベンチだと人の目が恐ろしかったし。結局、その後も自発的にはこの習慣を直すことはできず、呆れた先生方に「別棟三階の書道室を使ってもいい」と言われて、本当に安堵したのをよく覚えている。
書道室は、授業としては自分に縁のない場所だったが、生徒が集う教室の集中した棟からはかなり距離があるので、よっぽどの用事がなければ、他の生徒はここに訪れることは無かったからだ。三階で眺めも良く、静かで、昼休みの時にしか来る事はできないけれど、とても救われる場所だった。

授業中は筋肉を押さえつけるのに精一杯か、あるいは眠気を耐えながら過ごすしかなかった。殆どのテストには何も書くことができず、最初の頃は氏名を記すことさえおこがましく思えて、そのまま名前さえ書かずに提出していた。後で先生方から「名前だけでも書いてくれ」と言われてこの悪癖は治ったが、生まれて初めて味わう0点という結果がどれほど惨めだったか、今でも忘れられない。

クラスメイトの和の中で、自分はあまりにも異分子で、邪魔な人間だった。
彼ら彼女らの傍に行くと、纏っていた筈の朗らかな空気がみな掻き消えて無くなった。
何をするにも足手纏いだった。
早くこの学校から消え去ってしまった方が、誰にとっても喜ばしく、嬉しい出来事だろうのに、高校卒業の資格を取りたいばかりに皆に迷惑を掛け続けている、あまりに自分本位な、我儘な自分が本当に嫌だった。

だが、そんな中でも、時折廊下やあれこれのイベントで出会うS井さんとはまだ親交を保っていたのは、俺の学校生活の中で数少ない救いだったと思う。とはいえ、顔を合わせれば挨拶をし、彼女の校内発表があれば観に行って、終わった後に感想を語るくらいだったが。あの人の存在が当時の俺にとって、どれほど心の支えになっていたことだろう。
また、月に二度ほど通う病院では、たった一度だけ、院長先生の奥さんに、お煎餅を一枚貰ったことがある。学校が終わった後に訪れるものだから、いつも辺りはすっかり暗くなって、病院の閉まる数十分前、滑り込むように受付を済ませるのが常だった。彼女は「なんだか○○そうだから」と微笑んで、透明のビニールに包まれた薄いお煎餅を渡されたのだった。"可哀想だから"という言葉ではなかった気がするが、確たる事は覚えていない。
こうした、ほんの時折に訪れる微かな幸福を継ぎ接ぎするようにして、やっとの思いで日々を生き永らえているような人間だった。

何年次かは覚えていないが、二年次か三年次の学園祭があった。当時の俺の役割分担は思い出せない。何か当番を与えられていた気もするし、そうでなかったかもしれない。授業が終わったり、あるいは授業時間を学園祭の準備に割り当てられる度に教室を逃げ出していたから、何の役割を与えられていたのか、どうしても思い出せないからだ。
学園祭当日になって、教室には行ったものの、準備と開催の何やかやを横目で眺めた後、教室を出てうろうろと、賑やかな校舎を彷徨った。
なんだかんだ言っても、こうした明るい空間は好きである。お化け屋敷やら何やら、あっちこっちの出し物を特に目的も脈絡もなく体験して、時折自分の教室に戻った。
教室の出し物は、蕎麦屋だった気がする。いや単純に何らかの飯屋であって、提供している食事のメインが蕎麦なだけだったかもしれないのだが、それだけ当時に食べた蕎麦の印象は強い。教室の端、ベランダに面した一席を陣取って食事をしていると、人気の少ない教室の中、じいっと不安そうに、あるいは露骨に警戒の視線をこちらに向けてくるクラスメイトを見ると、微笑ましい気持ちになったものだ。俺は別に、突然教室内でナイフを振り回したり、自殺をおっぱじめるタイプの落伍者ではなかったのだが、当時の世相からして、そういった目線で見られても仕方のないところはある。
俺は当時から、そうしたクラスメイトたちが特段に嫌いではなかったし、むしろ今になっても、尊敬の気持ちも少なからず抱いている。とはいっても、名前も顔も、もう思い出せないのだが。彼らたちと、まるっきり赤の他人として付き合うことができれば、どれだけ楽しかったことだろう。ただの一人の客として、合法的にクラスの中に入る事ができたあの時間は、自分にとってかけがえのない思い出になっている。

そんな風に、半壊した学生生活を続けながら三年次に進級した。担任の先生は、30代後半ほどだっただろうか、とても温厚で誠実な、良い人柄の男性の方で、今でも尊敬しているが、今どこで何をしているかは、まるで分からない。去年に年賀状を送ったけれども、返事は未だ届かないままだ。

状況は何も変わらないまま、修学旅行の時期になった。
お金は積み立ててあるから、けっして行けない訳ではないのだけれど、俺は必死で、泣いて嫌がった。担任の先生は最後の最後まで、俺に行って欲しいと説得をしてくれたけれど、俺はどうしても嫌だった。今でもこの選択は後悔していないけれども、思い出すだけで惨めな気分になる。
他の生徒が修学旅行に行っているあいだ、授業こそ無いとはいえども、学校には登校しなければならない。その日は、緞帳のように厚い雲が空を覆い尽くした、凄まじい豪雨の日だった覚えがある。外の校庭でさえ真っ暗で、三年次の教室がある校舎は、それこそまるで夜のようだった。
教室で自習という訳にも行かず、自分はあまり馴染みのない、一階の校舎に連れて行かれた。図書室の向かい側にある、購買などのあるサロンへ繋がる部分で、渡り廊下を巨大化したような作りに、そのまま教室が並んでいる場所だ。校庭に面した校舎だから、放送室や進路相談室などがある事は知っていたが、実際に足を運んだことは殆どなかった。
俺が連れて来られたのは、放送室の隣の部屋だった。とても新しい部屋のようだ。明るい蛍光灯の光に照らされた綺麗な白い壁が印象的で、教室の半分ほどの部屋の中には、ほとんど調度品も何もない。ただ唯一、校庭に面した窓際に、使い古された灰色のオフィス机と椅子があった。「ここで一日、自習をしていて欲しい」と言い渡されて、俺は素直に了解した。
真っ暗な外の景色と、ごうごうと響く雨音、それとは対照的に静まり返った、光量の強い蛍光灯に照らされる真っ白な部屋の中は、あまりにも鮮明な光景で、今でも強く記憶に残っている。
珍しい風景を眺めつつ、午前中は静かに自習をしていた。一年の頃の数学の教科書を持ってきて、まだおぼろげに解法を覚えている、最初の頃の課題をやり直す。もう二年や三年の授業にはまるでついていけないけれど、これくらいの頃の勉強なら、微かに解き方が記憶の底に残っていた。実際に俺は、とりあえずのところ高校卒業の資格を持っている人間だが、実際の学力は中卒程度もない人間だ。職場の同僚や友人にこれを話すと、「さっさと中退すれば良かったじゃないか」と笑われるが、自分では特に間違った判断だとは思っていないでいる。
昼ごろになると、食事を取りに部屋を出た。相変わらず三年次の校舎の中は真っ暗だった。明るい照明が着いている場所であっても、そこには独特の雰囲気がある。とても湿ってじめじめした空気と、薄く泥の張った滑る床。はるか遠くの校舎からは、騒がしい、ひとびとの笑い合う声が微かに響いて来て、自分がとても不思議な空間に迷い込んできたような錯覚を覚える。俺はそのままパンを一つだけ買って、いつも過ごす三年次の教室へ行くことにした。
廊下の端から端まで、人気のない校舎。薄暗く静まり返った教室は、まるで放課後のようだった。教室に何が置いてあったかは覚えていないが、個人の持ち物が、ほうぼうの机の上に何個かあったような気がする。
自分の机にそっと座って、教室を見渡した。外は既に暴風雨になっている。不思議と落ち着いた、穏やかな気分のままゆっくりとパンを食べて、それからたっぷり30分は、そのまま教室の中で過ごしていたような気がする。
それから数日の間はそうして過ごしていた。何事も無く終わった数日間だったが、この時に覚えた多くの感覚やモチーフ、風景や光景は、当時から今までの八年ほどの間、いくらかその形状を変えつつも、絶えず夢の中に現れたり消えたりを繰り返している。

そうこうしているうちに、じりじりと卒業の日が近づいて来ていた。
定期テストで赤点を取る事はだんだんと少なくなって来ていたが、それでも成績はぎりぎりだったのに、なぜ自分が卒業できたのか、今でも不思議に思えてならない。こんな生徒に留年をされても迷惑だからだろうか、それとも先生方のお慈悲だったのだろうか。何が理由かは、自分には永遠に分からない事だが、それでも有り難い事には変わらない。

卒業式の内容がどうであったかは、まるで記憶に残っていないのだけれど、式典が終わり、最後の授業も恙無く締め括られたあと、俺はS井さんの教室に向かった。いつもと変わりのない、多くの友人に囲まれた女性だったが、大事な話があるからと時間を貰って、迷惑千万にも教室から連れ出したのだった。端的に言うと、それから彼女に三年間の感謝を述べて、「好きだ」と告白をして、賢明な判断にもすっぱり振られたのだが、もとより自分の気持ちを伝えることが目的だったのだから、後悔や残念な気持ちなんていうものは微塵もない。S井さんのご友輩に「未来の旦那さん?」と言われたのがひたすら嬉しくて、今でもよく覚えているが、当のS井さんはただ微笑んで、俺はゆっくりと首を振るだけだった。それから二人で写真を撮らせて貰ったのだけれど、現像した写真を送ろうかという申し出は、その場で断っている。メールアドレスも交換しなかった。
俺はもう、この学校の何もかもとは、まるっきり縁を切るつもりだったし、思い出も、自分が居たことさえも全て、すっかりなかった事にするつもりだった。実際にS井さんとの親交を含め、恩師に宛てた年賀状を、微かな文章を添えて便箋で送った以外は、あの学校の人間関係は何もかも潰えている。中学校時代の同窓会は、既に二度ほど出席しているが、高校時代の人間からは、そうした連絡はまったくの皆無だ。それでも構わないと言えば構わないのだが、もう名前も覚えていない彼らの顔を、また眺めてみたいという思いには、時折駆られることがある。そうした会合があるのなら、ほんの五分か十分ほど様子を眺めて、皆が元気そうなのを確認すれば、すぐに帰るつもりではあるけれど。S井さんも当時から器量のいい女性だったし、もう家庭を持っていてもおかしくないだろう。今をどうしているか、けっして気にならない訳ではないのだけれど、自分はもう、顔を合わせることすらできない、動く死体のような人間になってしまった。いつか花の一束でも贈りたいとは思っていたが、これは恐らく実行することもなく終わるだろう。
卒業文集も行方不明になって久しく、家のどこを探しても見当たらなくなってしまった。卒業式のあと、自分でどこかのどぶに投げ捨てたような記憶もあるにはあるが、ほんの数年前に自宅のどこかの本棚で見付けたような記憶もあり、その存在は非常に曖昧だ。そのうち忘れた頃に、ひょっこりとまた出て来るかもしれない。

あの高校を卒業したと同時に、自分という人間は一度死んだのだと思っている。あれはもう既に前世の出来事で、いまの自分とはもう別の人間の人生なのだと、そうして気持ちを処理するようになって、随分と月日が経った。過去とは一度断絶した上で、また人生をやり直している人間は、世間には意外と多いのではないか。書類や経歴の上では確かにメリットになっているのだから、別に気にすることもないのだし、それについて批判するような人間にも出会ったことはない。むしろ最近は、18歳という早期に一度人生が壊れてしまったというのは、逆に有益なのではないかと考えてもいる。これが30代や40代からの挫折であったのなら、その人間はもう取り返しがつかないように思うからだ。

高校を卒業してからの人生は、今はまだ語りたくない段階だ。これもじき、時間の流れの中で感傷が風化することによって、自分の中で整理がつき、赦す事ができるようになって初めて、文章として残すことができるのだと思っている。

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2011年04月30日

20110430(2) 思い出ばなし #2

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俺が恙無く進学したのは、村に一校しかない、地方の中学校だった。全校生徒は六百名ほどで、金ばかりはだいぶ余裕のある村だったから、設備はやたらと充実していた覚えがある。ただし生徒は柄の悪い連中が非常に多く、通う前はひたすら不安で心配だった。

一年生として中学校に入学して早々、ツキのないことに、おかしなクラスへと編入されてしまった。小学校での友人や、それよりも付き合いの古い幼馴染連中とは全く引き離された、孤独なクラスを振り分けられたのだった。
それに加えてこのクラスには、自分の好き放題に生きているであろう頭の悪そうなのが四人ほど居たのだが、学年早々にその一人に目を付けられてしまった。
理由は恐らく席が近かったからで、不思議なことに、クジ引きで席替えをする度に、そいつらは俺の近い席に陣取るようになる。前と後ろに引きが来るなんていう事態もしょっちゅうだったが、何か仕組んであったとも思えない。ただ単に運が悪かっただけの事だろうが、それでも理不尽に思えて仕方がなかった。
後ろから椅子を蹴られるなんて事はしょっちゅうで、文房具を破壊されたり、机を使い物にされなくされたりも一度や二度ではない。
単純な暴力にも暇はなく、何の前触れもなく腹を殴られたり、部活棟の裏でリンチを受けたり、宿題のために提出し、再び配り返される筈のノートをベランダから外に投げ捨てられたこともある。自転車にはあまりに頻繁に悪戯されたので、なんとか頼みこんで職員用の昇降口に置かせて貰っていた。
石を投げつけられて左手の甲を負傷した時の傷跡は、今になってもまだしっかりと残っている。

そして、この教室の担任がこれまた難物だった。三十代かそこらの、若い、神経質そうな、担当教科は英語の女教師で、酷く夢想的と言うか、自分の言葉や思想に酔う節があった。俺が切羽詰まって相談したところで、「あなたは私に何をして欲しいわけ?」と言い放ったことを、今でもはっきりと覚えている。荒れ放題やりたい放題のクラスをどうしようとしたのかは分からないが、HRで泣きながら演説を一席ぶったりもしていたが、当の本人たちはニタニタと笑うか、ブツブツ何かを言うだけだった。

当時、深刻に参っていた俺は、勉強以外に何かをするとか、何か前向きな目標を持つことが考えられなかった。二年次に上がる頃、学校からはしょっちゅう『将来の夢』『大人になったらやりたい仕事』『進路志望』とやらのアンケートが回されて来るけれども、何を書けばいいのか皆目見当もつかない。
もう仕方がないから「早く何か犯罪を犯して、刑務所に入って一生を過ごしたい。」と書いたら、教師も親も誰もかれもが怒り狂い、すっかり参ってしまっている俺を更に追い詰めるようになじり、猛烈に叱責してきた事をよく覚えている。
心身ともに疲弊しきっており、自分について自信も尊厳も何もない当時の俺は、本当にそうなる事を望んでいたのに。
こんな一つの取り得もない自分に、何か立派な仕事ができるとは到底思えなかった。何かを成し遂げようとする目標も持てない。家庭を持てるような人間にも思えなかったし、大金を稼ぎたいとも思えなかった。
それを書く度に、あまりにこっぴどく怒鳴られるものだから、それにも嫌になって、適当に思い付いた職業を一つ二つ書くようになった。
しかし、そんな雑な提出物も教師たちは無闇に読み込んでいるようで、「先月は○○になりたいって書いてたのに、今は××なの?」などと質問してくる。
仕方ないので「はい。」と答えるしかない。
正直に「なりたい職業はありません。将来の夢はありません。」と答えると、「ない訳がないだろう!」と激昂するのだから。

そうこうするうちに、何とか無事に中学を卒業できたのは、今でも奇跡に思えてならない。こんな所からは早く脱出したい一心で、遠い所にある単位制の進学校を目指して、必死で勉強したのが実を結んだか、ちゃんと第一志望の高校に受かることができたのだった。
ただ、同じ高校を受けた友人たちが揃って不合格判定を受けてしまったのは誤算だった。
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2011年04月19日

20110419 思い出ばなし #1

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この世に生まれてから、一番最初に見た光景の記憶がある。
大きく開け放たれた廊下の窓から射す、とても明るい太陽光線を後光に、自分から見てはとても大きな大人が、じっとこちらを見ているという光景。その大人が誰かは分からない。女性か男性か、老人か若者かさえはっきりしない。あまりにも眩い光が邪魔で、その人のおぼろげな輪郭しか、記憶に残っていない。

小学校に入った頃、その時代はまだ"いじめ"という現象が、一般には広く認知されていない時代だった。保育園や幼稚園でも一応の集団生活はあったし、勿論トラブルも絶えなかったのだが、その頃にやられた事には、明確な悪意とはまったくかけ離れていた。
確かに、泥を満タンにしたバケツを頭から被せられたり、知らない誰かにお弁当をゴミ捨て場に放り投げられたりというような事はあったものの、そんな諸々の出来事は、まだ精神の未熟な子供が一時の激情に駆られただけの事だし、大人もきちんと叱り、指導は果たされている。それに加えて、後腐れというものとも無縁だった。

背が低く、のろまで鈍臭い、人間に対してどう対処したらいいかを全く知らない、要領の悪い子供だった。言われたことだけはこなせるが、その先をどうしたらいいかも分からない。
元気でやんちゃな連中が多く集っていた小学校では、必然的に脇に追い遣られ、静かに過ごさざるを得なかった。
素直で従順な事だけが取り柄で、手がかからない分、他の子供の世話に追われる教師たちにとっては、こちらの方に目を届かせる必要も、きっと薄かったのだろうと思う。
酷い喘息持ちで、腹の底から大笑いするたびに苦しい発作が起きるから、自然と笑う事もなくなった。身体も酷く虚弱にできていて、季節が変わるだけで風邪を引くくらいの子供だった。

学年がいつだったかの記憶は無いが、当時の席順というのはあいうえおの名前順が定番で、俺の席の近場には、Yという子供が座る事が多かった。Yは、当時の学年の中でも格段に体格が良く、背も俺の頭二つ分は高かった。
Yはなんというか、もともと特殊学級の子共だったのだと思う。
彼の身の回りに何かあれば、それが授業中だろうと平気で暴れた。
粘土を投げつけて来たり、何の前触れもなく席を立ち上がり、奇声を上げながら前蹴りをして来た事もある。俺はそうした彼の一挙手一投足をが酷く怖くて、席変えの度に怯え、彼と離れられれば過剰なほどに安堵していた覚えがある。

問題と言えばそれくらいのことで、勉強も順調に覚えたし、友人も多く作ることができていた。やはり感情を抑えられない連中に、無闇に巻き込まれる事も多かったが、所詮はただ単に子供が暴れているだけだった。

そんな生活の、どこか、何か様子がおかしくなり始めたのは、小学校も高学年に差し掛かったくらいの頃の話で。

まだ三月か四月か、それぐらいの肌寒い頃だった気がする。一人での下校中に、四〜五人ほどの人間に絡まれて、囲まれたのだった。その連中が誰だったかは覚えていないが、恐らく同学年の人間のように思える。
彼らは口々に、「用水路に入れ」と言うのだった。訳も分からず混乱していると、彼らはやけに怒り、怒鳴り始めて、ほとんど彼らに引き摺られるようにして、下校路の脇にある用水路の縁へと歩かされた。
彼らがあまりに凄まじい剣幕で怒鳴るものだから、俺はすっかり怯えきって、とりあえずズボンと靴下は脱いだものの、あんな汚くて流れの速い用水路に入るなんて、とてもじゃないけれども決心がつかない。
ぐずぐずしていると髪を引っ張られて揺さぶられ、それから恐る恐る用水路のコンクリート岸壁に手を掛けたけれども、そこから先の、水の中に入るという行為がどうしてもできなかった。
あまりに怖くて泣きだしてしまって、何を言われても泣くしかできない俺に諦めたのか、彼らはそのまま去ってしまったが、俺はそれから何週間も、一人で用水路の傍を通ることはできなくなってしまった。

同じ犯人ではないだろうが、それからのこと、学校の持ち物が頻繁に無くなるようになった。絵の具セットは二回も無くなってその度に購入したし、習字用具は中身ばかりが無くなった。
そうすることで何より嫌だったのが、「また無くしたのか!」と、親や教師に延々と責められる事だった。実際に自分がどこかへ置き去りにしてしまった可能性もあるが、教室から外へ持ち出すなんて事は殆ど無かったし、そもそも自分のロッカーから出す事自体があまりない。
この『持ち物が無くなる』という事態には、これからの学校生活で自分とは切り離せない出来事になる。

昼休み、クラスメイトがほぼ全員、グラウンドやどこかへ遊びに行っているとき、俺は図書室で本を読んでいたり、あるいは教室の学級文庫を読んで過ごしていたことが多い。本を読むのは何より好きだったし、それに例えグラウンドへ出たところで、サッカーや鬼ごっこの中に加われない子供だったからだ。
運動が苦手で、明らかに遊びのお荷物にしかならない俺は、誰にも誘われなかったし、自分からも遠慮している。
ある時、そんな風に教室から出て行かない俺を教師が散々叱りつけて、それからのこと、やっとグラウンドへ出るようになったが、遊ぼうにも遊び相手がおらず、一輪車も乗れない、高い遊具には昇れない子供だったりで、延々とグラウンドや校舎の周りをうろうろと歩いて、そうして時間を潰していたのをよく覚えている。

こうした辛い記憶も一部にはあったが、なんだかんだ言って小学生の頃はまるっきり平穏に過ごせている。
比較的に言ってとても平和だった小学校時代の気分を引き摺りながら、ふと中学校へ上がると、変に知能のつき始めたガキどもが、大手を振って無茶苦茶をやり始めるようになるのだった。
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2011年03月31日

20110331 Sun-shower

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一昨日、三月の二十九日は自分の誕生日でした。
せっかくの節目なので、懺悔やカミングアウトを兼ねて自分のことを詳しく書こうと思ったけれど、ひたすらうんざりするような事柄ばかりしか思い浮かばなかったので、モザイク状にぽろぽろ述べようと思います。

俺はそれこそ小学校入学から中学二年の頃まで延々とイジメられっ子で、高校一年次の時に統合失調症を発症し、現在では等級3障害者手帳持ちの、正真正銘の精神障害者です。
高校でもろくな目に遭わなかったので、これ以上学校という所が嫌で嫌で行きたくもなく、大学なんて進学したくもありませんでした。当然のこと学力も未熟だったのですが、だいたいこんな気違いが大学に行ったって、誰の利益にもならなかったことでしょう。ブログでは一応、自分では普通の人間を装っているつもりですが、実態と言えばこんなものです。

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歳が繰り上がると同時くらいに、そのような感じで酷い鬱に襲われたので、三十日は一日遣ってあちらこちらをうろうろとしていました。懐かしい道や知らない土地へ訪れたりと、我ながら惨めな心境で彷徨っていたものです。いい夕焼けの撮れる場所を発見したのが、その日唯一の収穫だったでしょうか。

とても長い間、自分の時間はあの時代で停まっていました。
ふと何気ない瞬間に、頭の中にかかっていた靄が晴れたような、周囲にある無数の色彩が、しっかりと脳裏に認識できるようになったような、まともに動かなかった手足がきちんと自分のいう事を聞いてくれるようになったような。自分の五感や四肢、筋肉や思考の全てが再び動き出したときのことは、よく覚えています。
詳しくは言えないのですが、森の中でした。湿地のような、地面から薄く染み出した水の張った、綺麗な場所でした。オレンジ色に剥き出した土の色や、青くてほの白い雲のかかった空といった風景は、今でも忘れることはありません。

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自己憐憫と言われても全く反論できないのですが、そうでもしなければ夜に眠ることさえ、朝に起き上がる事さえできないのです。ただ、まだ果たせていない約束がいっぱいあるので、このまま人生を投げ捨てるつもりもありません。ここ数年くらいは、微かな縁で知り合った、親しい人々との義理と恩義を繋ぎ繋ぎして、そうしてやっと明日を手繰り寄せているような気がします。

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長ったらしい、見苦しい醜態を大変失礼致しました。どうしても吐き出しておきたかったもので。ちゃんと明日からは普通の調子に戻るつもりですので、どうかお許し下さい。
posted by TRBRCHDM at 22:59| Comment(2) | TrackBack(0) | その他